ばあちゃんに誓って。
生きていてくれるだけで チカラになってる。
一緒にいれた時間の数だけ、離れていても いつもそばにいるように感じられる。
生きていてくれて ありがとう。
100年って そう簡単じゃあ ないんだよ。
身をもって それを知ることになった ここ最近の作者です。
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ばあちゃんがね、死んじゃった。
あっという間だった。
あと3年で100歳だった。
当然100歳まで生きてると信じ込んでた。
お葬式で、お別れの言葉を読ませてもらった。
14年前 じいちゃんが死んじゃった時も
2年前 親友が死んじゃった時も
小学校3年生の時 後ろの席の子が死んじゃった時も お葬式で、お別れの言葉を読んだ。
いずれも 自分の人生に大きく影響を与える死だった。
今回なんて なんか昨日いきなし久々高熱出して寝込んじゃった。
座ってられないくらいのしんどさだった。
人生において、 死 以上に影響の大きいものがあるだろうか。
あるとしたら
誕生、だ。
でも
死は ずるい。
フェアじゃない。
誕生、には“いずれくる死”が もれなくセットなのに対して 死、には誕生が約束されていない。
取りよう、こじつけようによって、大きな意味があるように 吹聴することは出来る。
なんなら誕生よりも、 死は 終わりが決まったものだからして 完結した物語のように 自分はこう捉え こう生きていくことに活かしていこう と指針にすることはできよう。
現に じいちゃんの死は 今の自分の柱になってると言えるほど 強いガイドラインになっている。
けどそれは 死なないと 刻まれないものなのか? 生きていてくれていても ちゃんと心身共に影響を受けられるのでは? たしかに いてくれていることに 甘えるだろう。 だけど それくらいの 甘えは ご愛嬌で許してはくれないのか?
この人生の 説明がつかないことを 仮定 を用いて 信仰す。
その信仰をもって 自らが迷わず進む 生きてゆくチカラとす。
その信仰の先の 仮定 は 誰かが言い伝えた裏の取れないものではなく 自分が感じて そうだ これだ と思えるものが良い。
これだ と思えるのは、自分が体感した経験をもとに判別するしかないにも関わらず その経験値を得ることを差し置いて 救いを先に欲しがる者が 信仰を貫けなかったりしてたりするが
つまるところ信仰は
宗教でなくとも 好きなミュージシャン 好きな作品のキャラクター スポーツチーム…なんでもその代わりになり得る救心性から
将来の夢 憧れ と近い感じと捉えていて…
心からそう思えるならばそれが生きてく理由にもなれるように
仮定は どんなものでも良いと思う。
家庭が さまざまであるように。
こうでなくては ならない と
人様の仮定を 否定しようとする者は 自分の進む道に確信が持てない者であろう。
人様の家庭を見て こじれてる だの いびつだの 言う者は 自身の家庭から目を逸らしてるのであろう。
どちらも考えようとせず、今が良ければ それで良いとする者は 先送りしたその先で その問題と相対することとなるであろう。
それは それで それぞれが それぞれの役を その時 全うしてゆく。
物語のキャラクターに、もっとここでこうしてと言い、2回目読んだ時、そうしてもらえないように この人生も同じで いくらそれを唱えたからとて 受け取れないものは受け取りようがないのである。
もう、これで やめにしようと 思う。
色々、言うのは。
ばあちゃんに、誓う。
ここから先は
ただ
ただ
相手が好きな自分になれちゃうような 鏡 になるんだ、ばあちゃんのよーに。
鏡は 自ら 動かない。
ただ、そこに 在る だけ。
どう 在る か が これからの自分の人生となる。
今日からまた、がんばるぞっ
ばあちゃんみたいに 不平不満は 墓まで 持ってゆくんだぞっ。
出来るかな。
こぼしたらごめんね。
おしまいっ🤡
人目の大統領です。