RAKUGAKIYA BLOG

冒険の書を読みますか?

似顔絵66500★9月になりましたナ

口コミで売れ続けるラクガキヤの似顔絵アイコンちゃん

皆様の成長に合わせ、私の腕も上達していきますので、是非何度もリピートされてください。笑

 

★★★★★★★★★★★★★

あぁ…日をまたいでしまったが

 

今日は苦しい1日だったけどね、最高だった。

 

 

というか、8月が、ちょと仕事がスケジュールばっつんぱっつんで死ぬかと思った。

 

いやあ、そんなこと言えてるくらいはまだまだ大丈夫なのだろう。

これくらいの苦しみを経験したくらいでは、本当に苦しい人たちの気持ちなどわからないのであろう。

なのに、なのになのになのに

すぐ「わかる」と相槌を打ってしまう。

なぜかと自己分析をすると、私は、想像力が豊かだからだ。

実証のできない言い訳に聞こえるかもしれないので説明するため、私の想像力がどれくらいのものか伝えるとすると、男38年、エロ本やエロビデオは一度も買ったことがない。

二十歳を越えたあたり、変な先輩に黒ギャルのエロ本をプレゼントされた時、どこにしまっておけばいいんだと困ったことがあるくらいのものだ。(まーくん、あなたからの贈り物です。

その後、大阪で仲良くなったバイト先のオーナーの弟さんに、「1番の宝物です」と渡されたDVDに衝撃を受けて、借りパクして大分まで持って帰ってしまったほどだ。(ミキヨシさん、いつか返しに行きます…

もう説明しなくてもわかるよな?

話を戻そう。

 

本当に苦しい人は、苦しいなんて伝えられない。

まわりも、察しているのにも関わらず 言ってくれなかったから とか 本人にも問題があるんでは とかなんとか言って、自分のせいではないという論調で自分は原因でないと主張するよう自己正当化を反射で発する。

 

じゃあ、どうすれば、誰が、本当に苦しい人を救えるだろう❓

つまるところ

同じ経験をしたものでないと救えないのだろうか。

いーや

“同じ経験をする”など、生まれも育ちもそのことが起きた状況も違うと 絶対にあり得ないと 思い知らされるようなこともくらった。

その先で、考えてみたが

救われる方法は

自分が 救う と決めた時なのでは

という仮説に行き着く。

 

いーや

優しくされたいなら優しくする

みたいに見返りを求めるような行為では、生半可すぎて、理屈上ではスッキリしても、実用できなくてガッカリな経験もした。

 

私は

いじめられっ子が いじめる側に回る と決め、いじめられなくなった例を実際に見たことがある。

それが良いことか悪いことかはわからないが、そのいじめられなくなった者は、暴力でもなんでもないものを暴力と感じるくらいに敏感に、まわりが攻撃してるような反応を示す大人になっていた。

そう思い込んだ者には、話は通じない。

こちらのちょっとした不備で、あっという間に心を閉ざしてしまう。

 

もはや…自分がくらったものを他にくらわせないと、その苦しみからは解放されないんではないかと思えてしまうくらい、打つ手がないように感じてしまう。

かつて流行っていた、不幸の手紙のなんの根拠もないと思っていたルールのように…

その悲しすぎる方程式を皮肉っていた遊びなんだったんだとすると、流行るのもうなずけるくらいよく出来た遊びだと感心さえする。

 

しかし、不幸の手紙を回さない者がいる。

 

それは、生まれながらに幸せで、幸せを当たり前と感じられる、不幸を一度も経験したことがない者。

もしくは、圧倒的不幸を経験していて、これ以上があるのかよ、という堂々たる者。

そんな人が本当にいるのかと疑問に思うかもしれないが

 

いる。

 

いた。

 

何度も思い出す、あの子とあの子。

 

私はそのご縁を紡ぐことができなかった。

私はそのどちらでもなかったのだろう。

 

不幸を一度経験した者は、どれだけ物凄く成り上がったとしても、不幸に戻りたくない一心で、不幸の手紙を躊躇なく回す。

 

けれど、不幸を経験したことがない者は、知らないから、怖くない。だから、回さない。

無知は罪だと言った者もいるそうだが、それは確実に本人の意見ではなく、まわりの意見だろう。

 

ひとは、まわりから「かわいそう」と思われて 初めて「かわいそう」になる。

いーや

「かわいそう」と思われて「自分はかわいそうなんだ」と認識して ようやく“かわいそう”になると いう方が正しいだろうか。

罪もそうだ、「それは良くない」と指摘されてようやくそれを罪だと認識できる。

幼き頃のなんでもないもので、そのやりとりを終えておけるとどれだけの…

と、過ぎたことを論じてもどうしようもないが

そう、

不幸でも、可哀想でもない者は

 

存在する。

 

どこに?

 

それは自分をちゃんと等身大に自分と捉えられている者だ。

 

まわりの「あなたはこうだよね」に合わせるのではなく

ちゃんと自分と対話でき、自分を確立している者。

漫画のキャラに自分を当てはめてるような者ではなく、ちゃんと俯瞰して物語も、現実の事実も捉えられるような者。

「じぶんはこうなんだ!」と話す者は不安でしょうがなく自慢話を繰り返す。聞いてなくても先手先手で話し、それを現代の子はマウントを取ると表現している。

マウントを取る者は、殴られるのが怖い者だ。

相手がどうかよりも先に、想像し得る最悪を回避するために、必死である。

 

もうひとつの

圧倒的な不幸を経験した者というのも、誰も理由を説明できないほどの理不尽さを乗り越えてるための堂々であり 自分からはその話をしないくらいに圧倒的である。

 

おっと

 

なんの話してたんだっけ。

 

そうだ。

 

今日は苦しかったんだ。

 

 

けど、

 

けどね、

 

締めくくりは最高だった。

 

それは、誰かが何かしてくれたからではない。

 

自分が、そうあろうとしたわけではないのに

 

そう在れたからだ。

 

おめでとう、が言えるか不安だった人に「おめでとう」を言えた。

 

利益を追いかけて、まわりが信じられなくなってる人が、自分を信じてくれた。

 

子供たち2人に、子守唄を 手をクロスさせてトントンしながら 歌えた。

もうここまででも相当幸せなのに

その先で、誰かが何かしてくれた。

 

「おかげではなく、それは自分が選んだことだよ」

と言葉にしてくれた。

 

嬉しかったけれど、両手を上げて喜ぶと、今手にしたものがすべて転がり落ちてしまいそうだったから…

両手をグーにして「押忍」と言った。

 

よって

今日は、、本当に良い日だったんだ。

 

それは、相当苦しかったからだろう。

 

なんだか悔しいけど、

 

喜びというものは

嬉しさというものは

 

苦しみを先に味わうことで何倍もの効力を発揮するのではないだろうか。

 

苦しみを味あわなかったのなら、この喜びも嬉しさもないだろう。

 

よって、不幸の手紙を回さない者より、不幸な手紙を回しちゃう人のほうが、幸せなんじゃないかとさえ思えちゃうような。

 

だからと言ってはなんだが

 

本当に

 

ほんとにほんとに苦しんでる人に

伝えたい。

今、

あなたが、誰よりも、喜びも嬉しさも数倍で味わえる状況にいるということを。

 

自分よりも圧倒的なお金持ちの友達は

自分よりも圧倒的な知名度で有名人な友達は

なんだか、まるで味のしないガムをいつまでも噛んでるような顔してる。

比べようもない私でも

心当たりがある。

こうなりたい、って思ってた自分になった時

「あれ?こんなもの?」ってなるあの感じ。

けれど、まわりの「凄い‼️凄い‼️」に押されて止まれなくなってしまう。

 

なんのために生きてるんだよ

家族?

社会?

世界?

宇宙?

悟り?

 

わーっはっはっはっはっはっ

 

理由なんかない。

 

ただ、生きてるんだ。

 

ただ。

 

タダ ほどこわいものはない。🙄

 

ヒャーっ

おしまいっ

あなたはこの冒険の書を読んだ
人目の神官です。